怒りは人を孤独にしますね。個人的には何かに怒っている時、誰も分かってくれないという気持ちが生じます。そして同時に「どうして私が」という言葉が浮かんできます。後はどうしてという問いに一人でもんもんと答え続ける事態になります。

孤独感は怒りに油を注ぐ効果があるようです。ですから怒りを制御しながら問題に対処しなければならないという作業が必要ですが、これはなかなか重労働です。気力が続かないと怒りをその場で爆発させる結果を招きかねません。

病気は体力を減退させ、怒りは知力を減退させます。病気なのに激しい運動をしなければならないのと似ています。怒りに対処するのは結構複雑で大きな負担を強いられるのですが、このような怒りによる心的状況は誰でも同じです。

怒っている人はみな孤独を強く感じています。孤独はいわく、人生で人間がもっとも恐れる相手だとされます。何より孤独が恐ろしいという人はいくらでもいるでしょう。だからこそ、怒っている人と関われれば、孤独から救い出す友になれるという次第。

具体的に怒りのコントロールを支援することで、明日からの友を獲得できるでしょう。また相手の怒りを理解する時に、相手の考え方の深くまでを理解できるようになります。そして他人を理解することは、自分の理解につながります。今後相手は、あなたには心を開いて信頼してくれるはずです。

一般的に他人の怒りは大した事態ではないと感じます。実は怒りを覚えるポイントは人それぞれですし、物事に対する重要度も人それぞれです。ですから「そんなこと」と言わないで頂きたい。

そんなことで怒ることないでしょうと言うのは、個人的攻撃に聞こえます。怒りを覚える権利を侵害されているように感じるからです。問題がその人にとってどれだけ重要かを判断する権利を持っているのは怒っている人だからです。

「怒ることじゃない」と判断するのは危険を身に招くでしょう。怒ることじゃないなどと言われると教え諭されるように感じてしまいます。言葉のモードが上下関係を暗示するからです。これ以上何かを教えられなければならないのかと、孤独が刺激されます。

そして「どうして」という質問は怒りに油を注ぎます。理由を問うのは、怒りに正当性を求めています。怒りを正当だとする理由はさらに、怒りを強める結果になります。なので期待と事実との関係と事態の流れを客観的にたどりましょう。

この際気を付けたいのは、関係があっても、因果関係だと限らないという原理です。「彼が何をしたから」「こんなことになってしまった」といえば、因果関係を暗示しますが、彼が何をした事実と現状とは直接関係がないかもしれません。

当然だと主張するところに、その人の人格が表れ出ます。人それぞれという部分に人格が表れるからです。個人の当然は、全員の当然ではないからです。不本意な反応をされたから、怒りを覚えるとは限りません。

例えば店員が無愛想な態度をしても、何も感じない人はいるでしょうし、店員は愛想良くしなければならないという規範を前提にしています。恋人が約束の時間に遅れても、その時間を都合良く使える人もいます。そこには愛情を抱いているなら、時間厳守すべきだという規範が潜んでいます。

規範は因果関係ではなく、個人の選択です。怒りのパターンを多く知れば、選択の幅が広がりアンガーマネジメントの上達が期待できます。

とにかく自分の問題として一緒に対処しましょう。自分の問題として関わることで自分に対する能力が向上します。客観的に見れる他人の心的状況の方が対処を冷静にできます。対処の方法は自分自身に対するのと共通ですから、実践練習になっています。