混雑した朝の駅の階段を駆け下りるなんて、なんて奴だと激怒して怒鳴り散らしている人を何度となく見かけました。そのような行為は確かに危険極まりません。一度は駆け下りている人が老婦人を引っかけてしまい、あわや転倒という状況も目撃しました。

そのような危険行為を正当化できる理由が、駆け下りている人にはあると考えたことはありますか?絶対に許せませんか?でも、たとえ重大犯罪でも、被告についた弁護士は、行為の正当性を訴えて情状酌量などの刑罰軽減を試みるのです。

無免許運転は違法行為ですが、正当化できる状況があります。人の生死が関わった状況であれば、刑罰に問われないケースがあるようですし、殺人行為も違法行為ですが、罪に問われない正当法衛があります。

いずれも行為と結果だけを見ていては、判断できません。自分の判断だけが、正義を判別する基準になっている可能性があります。かつて活躍した新聞記者はそのような、自分の考えだけで成立する正義を「小さな正義」と呼んでいました。じつにプライオリティは人それぞれなのです。

仮に何か他人から受けた行為を不当と感じているなら、どこかに正当を設定しているはずです。そして正当であるためには、正義が必要です。人権はもっとも基本的な権利ですが、いつも主張できるとは限りません。

外国で日本人の権利を主張してもむなしく響きます。外国では日本の常識がしません。客が代金を支払っても店員がありがとうと言わない国があります。礼儀作法が違い、文化が違います。それどころか法律がそもそも違います。

私たちが信じている正義がどこまで不偏しているか、特定するのは極めて困難です。具体的には人権とは何か、その範囲はどこまでかなど具体的な内容についてはさまざまです。国際人権も特定の国家や領域には適用できません。国によって批准する、しないという微妙な問題があって、人権概念が定まっていないのが現状です。

私たちの感覚から隠されている事実が私たちの判断を誤らせます。札を隠してするカードゲームや麻雀などが良い例でしょう。相手が持ち札を隠していなければ、単なる論理ゲームであって、面白さは消え去ってしまうに違いありません。判断ミスが期待されていて、それが面白みですね。

大切なのはストレス状態でのフラストレーションを処理することでしょう。正義を振り回すのではなく、自分が受けた刺激をフラストレーションにしない工夫が必要なのです。そのためにストレス状態であることを意識します。

同じ状況では、だれもが同じストレスを受けています。意外とこれを見落としがちではありませんか。自分だけが何故、という考え方は不適切なのです。そこで個人的には中国拳法の「化勁」なる技術を応用するようにしています。対極の力で対抗せず、相手の力を無力化する方法を考えるようにします。例えば困った事態をコメディ化する状況を考えてみるのがひとつの方法になるでしょう。

小さな正義という考え方は、世界の果てとその向こうという考え方に基本を見いだせます。世界は自分の認識の枠組みのことで、自分の世界には知り得ない向こう側があると考えます。正義は全体と部分との関係で決定されますので、全体を知らない個人には判断できない正義があるのがわかります。

平常なら感じない悪意を感じる理由はどこにあるのでしょうか。いつもなら余裕を持って対処できる刺激でも、余裕がないときに刺激を受けるからフラストレーションを感じるのですから、大切なのは余裕のある精神状態です。通勤列車内のストレス度は、戦争の最前線に匹敵するそうです。そのような余裕を見いだせない環境がちまたにあふれています。