個人的経験ですと、貧しい例しか思いつかず申し訳ない結果になりそうですが、まだ学生だった頃の経験です。怒りを抑えきれなくなってしまったとき、周囲にいる人から「どうしてそんなに怒っているの?」と質問されるとはたと、困ってしまいました。

その人はけっして面白半分で質問したのではないでしょう。ですからその人に対して怒りは感じませんでしたが、言葉に窮してしまったのが記憶に強く残っているのです。あの怒り以外の感情はどこから出てきたのかと今でも時々思い出しては考え込みます。

そもそも怒っている理由なんて、聞いても他人には理解できないのではないでしょうか。友人たちもよく個人的に私の所に尋ねてきて、どうしようもなくなった怒りの感情を語ろうとしていました。そんな話を聞く度に、怒る理由がよく理解できませんでした。

それに対して「どうしてそんなことに怒っているの?」と尋ねられたときは、怒りに油を注がれたように感じます。先の質問と大変似た台詞なのですが、響きはまったく異なります。怒る対象と理由を誰かに許可してもらえといわれているように思えるのです。何に怒るかを誰かに決めてもらうのかと。

それに突発的な怒りでなければ、一言で説明なんて不可能です。突発的に怒るというのが、むしろまれな気がします。堪忍袋の緒が切れた状態は、きっかけしか意識できません。このような状況なので他人が感じる怒りに共感するのは難しいのです。

だいたい、みんな一緒というのは幻想に過ぎません。同じ場所・時間に生まれて同じ環境に育った双子ですら、微妙に感情の動きは異なっているのです。むしろ、だれもが一緒ではないから、人格が大切なのですよね。

でも意外と難しい「人格」という言葉を無警戒に使うのは危険かも知れません。人格の定義は心理学者でも答えに窮するそうです。なぜなら少し昔までは人格なんていう概念がなかったからです。ただ、高徳な人物とか低俗な人物なる概念はありました。

歴史的には個人主義が広まると同時に人格という言葉がデビューしました。誰もにある人格が人間の基礎概念を作っています。そして人格の高低が評価される社会になっています。高徳、低俗で語られる人品と人格とには微妙な違いがあるはずです。

自分と違うものと出会うことで人格が問題になりました。具体的には選択と計画は人格に関わります。その人の意思が選択と計画に表れるからです。つまり何を選択するかに人格が表れ出るのです。

たしかに尊厳は人格にありますから、他人が口を挟めないというのが原則です。また自分の選択は尊重されたいという思いがそれぞれの人の人格を表現しています。そのような人格は、生活環境で積み重ねられた選択の蓄積が基礎になっています。なので何に怒りを感じるかに大きい個人差が生じます。

昔から逆鱗に触れるという言葉があります。龍には逆鱗があって、それに触ると激しい怒りを買うことになっていますが、龍の逆鱗がどこにあるかが分からない。なので龍の逆鱗に触らない慎重な態度が求められます。人でも同じで、何で人の怒りを買うかは分かりません。

しかし、あなたの怒りは正当な扱いを受けるべきです。同様にあなた以外の人の怒りも正当な扱いを受けるべきです。怒りなどの感情は人格に関わる問題だからです。人格が正当な扱いを受けるのが分かれば、落ち着いて怒りに対処できるはずです。

ですから、怒るのは当然だと言い合える仲間が必要です。怒りを感じることの正当性を意識することがアンガーマネジメントの第一歩でしょうし、一人で取り組む作業ではありません。周囲にいる家族や友人の協力を獲得するのが、第一歩に先立つ準備作業でしょう。