怒りの裏側に悲しみの感情が控えています。怒りは決してそれだけの単純な感情ではありません。だからこそ怒りの感情は放置すれば周囲に延焼するように対象を広げていって、何に対しても怒りを覚えるようになってしまうのです。

東洋思想では悲しみは怒りの陰陽裏返しです。五行に配当された勘定にもそれぞれ相生相克の関係が成り立っていると考えます。他の感情と区別されながら、それぞれの感情に一定の関係を見いだすことができます。

だからこそ感情は思っているほど単純にコントロールできません。一旦鎮火したように思える怒りが何かをきっかけにして、再び心の奥底でくすぶり始めるのは、単純ではないからです。

まず自分の不完全さに対して正しく許しているのが前提です。許すというのはどうでも良いと考えることではありません。まず問題に気づけない自分は未熟なのです。自分で怒りを上手に処理できないのは鋭意努力中の課題です。

どのように怒りを相手に伝えれば良いのかが未熟です。自分が不完全だから失敗をしてしまいます。自分が未熟なのはあなたの責任ではありません。人間は完成しているのではなく、完成を目指しているだけです。

完成に向かう速度は人それぞれですし、人格の完成を目指すかどうかも人それぞれです。自分が不完全なのは自分ではどうしようもありません。それは人格の完成は一人の仕事ではないからです。難しく言ってしまえば、周囲との相互関係で人間が決まります。

戦場において人格完成が難しい理由は環境にあります。子供の人格形成が難しくなるのも、周囲の人との関係によります。それら周囲をコントロールするのは人智を超えています。だから自分の未だ至らない事実を受け入れる必要があるというわけです。

そうすると悲しみの裏には怒りが隠れている事実を発見できるようになります。そのときリスクも高いビジネスであったので、慎重に運んでいました。しかし、一人の人の事故死で企画中のビジネスプランは白紙に戻りました。だめになったからといって、怒りは感じていないつもりでした。知人の死を悼んでいたのです。

ビジネス上で人を失う悲しさを、友人と話していた時に彼の言葉に驚かされました。いつまでも怒っていないで、彼を許してあげなさいと言われたのです。彼は悲しみは怒りの感情だと説明します。違和感がありつつも、逝った彼を許すと宣言した途端、気持ちが晴れました。

自分が認識している感情と実際の感情とがズレている場合があります。途中でビジネスを放り出した人物に怒っていた感情に気づくことができました。そしてチームが空中分解してしまったことに怒っていました。悲しみをコントロールするために許すという宣言が効果を表します。

怒りにも悲しみが含まれています。その感情に対して許すと宣言するのは効果があります。なぜなら他者の世界に関与する必要はないからです。そもそも関与できませんし、すべきではありません。その人の人生はその人が責任を持てば良いのです。

だから相手の不完全さに対して許しましょう。相手がダメになっていく人生を選んだとしても、それを許してあけましょう。それは悲しい決断ではあります。それでもその人はあなたの責任外の存在です。それが自分の子供であったとしても。

たしかに相手が不完全だからあなたの怒りを買っています。不完全な人格は不完全な世界理解をしています。勉強不足なんですね。でもその勉強不足は一気に解決する方法なんてありません。

その人が勉強不足に気づかなければ解決しないことです。その人の責任です。怒りに潜む悲しみは、怒りが小さいと言います。存在に必然する孤独からの悲しみが隠れています。