ある知り合いから一人の若者を紹介されました。彼は「わたしは怒らない人です」という宣言をまじめに主張していたからです。自分は他の人とは違うのだという意識が高そうでした。

虚言癖があるのか、自分の姿を正しく捉えられないのかと仮説を立てて議論したり、さまざまに評価を試みたりしながら、観察を続けるようにしました。彼には幼い頃に精神病院に入院した経験があるとわかってきました。

そもそも怒りを感じない人はいません。そこで彼の表出と自傷行為との両方の関係に注目その人を臨床心理士と観察するようにしました。自傷行為も周囲に対して表現できない怒りの表現です。

怒りを忘れるまで、怒りを飲み込めば良いと教えられていたようです。この点は自分と同じだなぁと感心しつつ、表出の激しさに圧倒され、内部に蓄積された力を推察しました。怒ってはいけないという内的規範が圧力を高めます。

周囲が怒りを表しているにも関わらず、自分は抑圧しなければならないという状況は自己認識を著しく低くします。その意識は内部の怒りを育てる結果になります。彼は震える両手も意識できず、入浴中の自傷行為も無意識下で行うようでした。

溜めこんだ怒りは小さな刺激で噴出します。怒りの表現ふさわしい何か不当な扱いや生命の危険などというイベントは不要です。些細な刺激、例えば自分のスプーンに汚れが残っていた程度で充分なのです。自分が不当な処遇を受けている事実が重要だからです。

このように抑圧された怒りは、成長しながら噴出するタイミングを待っています。ある日のことです。彼の目の前で、他の人に対する怒りを表して激しい態度をとってみました。彼の顔つきが一気に変化して険しいものになりました。そして怒りを爆発させたのです。

怒りのプレゼンテーションで怒りが噴出したのです。彼にとって親ではなく、同じ資格を持っているはずの他人が激しく怒りを表出している事実が、内的抑圧している自分の規範に不合理な状態を作り上げたわけですね。

怒りは他の感情に変化して、長く苦しめます。潜在した怒りは場合によって正義感であるかのように感じられたりします。正義感は規範化していて、倫理的な振る舞いとして正当化されているように見受けられました。

一般に怒りの噴出は、破壊行動になって表れます。怒りを表現するのに優しい口調や、動物をかわいがるような優しい態度はふさわしくないでしょう。人によっては、延々と単純作業を続ける場合もありますが、それはやはり単純作業を繰り返すことで、自分の時間を浪費しているという破壊行動に含まれるように思います。

問題は、怒りはぶつける相手を選ばないので自分を攻撃するという傾向にあります。抑圧して育てられた内的怒りは地雷のようなもので、誰を攻撃するのかという目標がありません。ですから時として、「なぜその程度のことで、そんなに激しく怒るのか」と周囲に見えてしまうのでしょう。

そのように他人の怒りに無関心な人は自分の怒りに対しても野放図になりがちで、同じ危険を抱え込んでいるといえます。自分の内的な怒りの蓄積を認識できていないために、他人の怒りを自分と共通していると考えられないのです。

噴出する方向や対象、程度をコントロールするのは困難です。この点でも爆弾と似ています。怒りは決して突然生まれるのではなく、「どうして〜」という問いかけから始まっています。そして非合理な怒りは合理的な解決を探しています。

合理化するためにさまざまな原因を求めて、怒りの対象範囲を拡大します。怒りをできるだけ早期に感じれる感性が大切です。感じた時点ですでに身体的に反応していると東洋医学は警告しています。