感情を手がかりに自分を再発見すれば幸せの方向が分かります。自分の怒りによって、自分を追い込んでいると気づいた数年前から、さまざまに試みた方法を告白するのは恥ずかしい気がします。

とにかく辛抱してみるというのが最初の試みでした。それから悟りの境地を求めたりもしました。でも結果はあまり喜べるものではなく、最終的には自分の存在にダメ出しするだけでした。それでも懲りないで、方法を工夫して実践しています。

具体的な状況を例にとりながら、それをここで手順を説明して、恥の上塗りをしてみましょう。怒りを感じる状況というのがあります。それは不快で、理不尽なストレスを受けている状況です。

例えば朝の通勤電車の中で後に立っているサラリーマンが背中を押してくるとしましょう。これは実際に経験したもので、電車から降りた時には随分と疲れてしまったのを思い出します。

そんな状況では怒りがどこからかやってきて、眼の奥が熱くなるのを感じます。その正体は分かりませんが、ただ不快な状況から逃れ出たいという衝動が身体を突き動かそうとしているのを感じていました。

最初は言葉でできる限り正確に不快な状況を表現するのを目標にします。これは他のアンガーマネジメントとほぼ共通した手法だと思います。このままだとまったく効果しないばかりか、むしろ怒りを増長させてしまう危険もあります。

次に事実(できごと)を分析します。ここでいう「分析する」とは、事態を作っている要素を分離して、それぞれを検討する作業です。分析が終わって、合理的な説明が可能になったら、最後に再度、事態を表現して統合します。

分析の最初は事実を現象と解釈に分解することです。この作業になれていない方も多いかも知れません。馴染みがないというのであれば、身近な出来事で充分に練習する必要があるでしょう。

事実は自分が体験した状況ですので、次のように現象を表現できます。朝の電車が混み合っていること、後にサラリーマンが立っていること。そして背中を押されていると感じたことです。気づきたいのは、この3つの中で、最後の要素は解釈を含んでいる点です。

「押されている」というのは後ろに立っているサラリーマンの意思を前提にしてして、自分が正確に知ることができない部分です。つまり押しているから圧力を感じているというのを押されていると表現しているのであって、「圧迫を感じる」というのが現象になります。

たしかに現象と解釈とを完全に分離できませんが、解釈を無警戒に事実に含めてはいけません。そうしなければ、自分の解釈が事実を正当に把握しているという理解に捉えられてしまうでしょう。

現象と解釈とを分離できたら、その時の感情を明確にします。そのために事実に対してどんな感情を抱いたかを記述します。それは怒りでしょうか、不快感でしょうか。あるいは何故という感覚でしょう。

このように現象、解釈から生じた感情を分類します。感情を分離してみると状況と感情とのつながりが、必然ではなく、他の可能性を含んでいるかも知れないと気づく場合が多いです。

なぜサラリーマンが背中を押してくるのかという疑問は、何を意味しているのかと考えるわけです。何も意味していません。にも関わらず意味を問うから理不尽さを感じて怒りを生じるわけです。

このように怒りの対象を特定すれば、事態の軽重が変化します。自分自身に潜んでいる恐れの原因を発見することもあります。悲しむべき要素を人間に見いだすのであれば、とても哲学的な気分になります。

なにより安直な正義感を捨てるのがコツです。そうすれば無意識にある規範を発見できます。規範は自分の可能性を奪うのです。