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対人関係に必須のスキル・アンガーマネジメントで信頼獲得できる

アンガーマネジメントを習得しなくては…そう思ってから数年が経過してしまいました。なかなか上達しませんし、周囲にも迷惑をかけ続けています。それでもこれを投げ出してしまうわけには行かないのです。

自分の怒りをコントロールできなければ、周囲の幸せを作り出せません。ましてや自分の感情に無関心では自分自身も幸せになれません。感情は人間の幸福にとって大きな要素なのです。

確かに感情はいつも周辺環境に反応しています。気温が高いと怒りの感情が優位になりやすいですし、気温が低いと悲しみの感情が優位になりやすいでしょう。そして感情に一番強く影響するのは周囲の人たちの存在です。

できるなら一緒にいて楽しい人と、いつも一緒にれたらなぁ、とも思ったりします。しかし、周囲の人にも感情があって、時と場合によって大きく変化しているのも自分と同様でしょう。一緒にいると相手の気分を害するのが怖いと思います。

でも他人の感情はちょっとやそっとでは知り得ない面もあり、気分を害してしまっているのに気づいていないかも知れません。だから感情コントロールができれば、対人関係も順調になるといえるのです。

相手を恐れさせないというのは、相手に気分的な安心感を与えることを意味します。幸福感の前提には安心感が不可欠です。おとなしそうな雰囲気なのに突然の大爆発をする人なんかは、危険なトラップだといえますよね。

自分自身が誰かにとって感情のトラップにならないようにするのが第一歩でしょう。だからといっていつも不機嫌な表情で乱暴な態度をとっていれば周囲から人がいなくなってしまいます。

怒りは人を遠ざける効果があります。周囲から人がいなくなっては幸福をと言っている場合ではありませんね。だからこそ、まずは自分の怒りをコントロールすることが、幸せの第一歩なのです。

満足感を与えられる人こそ人気者になるという法則を教えてもらいました。満足感は人の期待に応えられた時に感じます。誰かに必要とされて、それに応えることができたなら誰し満足できるでしょう。

逆にすれば、求めることで人に満足感を与えるという関係も成立します。お互いに必要都市合う関係が成立すれば、関係が安定しますよね。ということは誰かに必要とされていると感じることは幸福感に大きく関与するといえます。

アンガーマネジメントなどの感情コントロールが幸福を得るために必要な理由は他にもあります。大前提はひとりでは幸福を達成できません、というものでしたが、人間の基本的欲求を無視して幸福は成立しないとも考えられます。

マズローによれば生理的、安全、社会、尊厳、自己実現の五段階の欲求があるとしました。下位の欲求は上位の欲求の基礎になっています。下位の欲求を充足しないで、上位の欲求満足には意味がありません。空腹などの生理的欲求が満足されていなければ、安全性などは問題にできません。

それぞれの段階で感情は大きく関わっていまます。生理的欲求を阻害されれば、怒りや悲しみが生じます。それぞれの欲求の段階に応じた感情の役割があります。例えば怒りは有る段階の欲求に対する不満を意味します。

食事が満足にできていないとき、食事に対する怒りは他の欲求レベルにおいても怒りのベクトルを与える傾向にあります。欲求段階的八つ当たりとでもいうべき現象です。なので、漠然と怒りを覚えたときに、欲求段階充足を確認すれば、見当違いの感情だと正体が明らかになります。

しかし、生命を守る心の働きが強すぎれば、安全な状況でも怒りが表出します。このような見当違いの感情を見分けて対処できるようになって、周囲も一緒に幸せにできる人になりたいと思います。

感情は買えません!どれだけお金持ちでも幸福であるとは限らない

お金で苦労した経験がないなら、それは幸せな人生だと思っていた時期があります。でも、何人かのお金持ちと親しくなって、彼らを観察していると思うほど幸せではありませんでした。

お金のあるなしで、幸福度は決まらないといわれますが、そこにも感情的要素があります。ですから、感情コントロールが大きく関わってくるはず。無一文でも感情コントロールの上手下手が大きく関わってくるようです。

実際、経済的余裕がなくても幸福でありえます。女の子は現金を持っていないのにまったく動じる様子を見せませんでした。すごくメンタルが強いのかと思ったのですが、そうではありませんでした。

彼女は前払い形式のカードを持っていて、一生懸命に何が買えるかを幸せそうに説明してくれたのです。幸せかと聞くと大きくうなずきました。現代日本での話です。彼女はお金がなくても幸せを感じていたのです。

幸福追求のために「感情」を無視できません。美味しいご飯を食べると喜びを感じ、それから幸せな気持ちに浸れます。怒りを感じているのに幸せを同時に感じられません。小難しい言葉を使うならア・プリオリ」な感情が幸せに関わっています。

感情は幸福に大きく関係しています。幸せだと感じている時に、怒りの感情を表せず、怒っている時に幸せを感じることはできません。幸福感はアンガーマネジメントに役立ちそうですね。

怒りが多いと健康を害して、仕事に差し障るのは誰でも経験しているのではありませんか?職場の怒りも家庭内の怒りも同じ怒りです。感情を維持していると、対象を選ばず同じ感情を抱くようになります。

不安を感じる所でデートすると恋愛感情を育てるのに役立つといいます。しかし、それ以前に好意を抱かせる必要があります。相でなければ、恋愛感情ではなく不安を感じる対象にまとめられてしまうでしょう。

心の中で大きな場所を占めている感情は、すべての感情を同じ感情にしようとする傾向を持ちます。怒りを感じていると、あらゆるものが腹立たしいと感じるようになります。結果として怒りを溜め込むと幸福感を喪失します。

強調すべき事実は、幸せは感じるものだということですね。その意味では幸福もまた感情の領域にあります。その鍵の一つは満足感にあります。満足感は幸福感を生みます。そして満足感はお金では買えないものです。

満足感をお金で買おうとすると、心理学的に「過剰補償」といわれる、現象を発現します。1回では満足できず、さらに大きな刺激を求めるようになります。一般に、過剰補償を求めるのは、欲求不満を生じていると言い替えられます。

一方、「金持ち喧嘩せず」という言い方は彼らがアンガーマネジメントに長けているように思わせますが、決してそうではありません。「金持ち怒らず」ではありません。知り合いに金持ちはいますが彼らは怒りを感じて表します。

そのような金持ち的な存在を考えれば、感情と幸福の関係でわかることもあります。まず私たちはお金持ちを敬遠しがちです。普通はお金持ちを友達にするよりは、お金そのものを友達にしたいと思う者ですよね。金持ちが怒ると周囲を見下す本音が出てくるからです。

彼らが周囲を見下せるのは、自分の周りに人がいないからで、彼らは実は強い孤独感の中にいるのです。孤独は幸せの対極にあります。幸せは社会的感情の一つですから、大きい経済的余裕は怒りと同じように人を遠ざけ、幸せを消費してしまう結果になります。

その友人を助けている限りは友達でいられます。しかしお金で助けるのでは、他人を信頼できないので所属欲求が満たされない結果になります。人から信頼されているのはお金だ、という不信感が消えないのです。

何をどうすれば良いの?アンガーマネジメントするとはどういうことか

あなたはすぐに怒る、または君は気が短いねと、そんな風に評価された経験はあるでしょうか。個人的には子供の頃から、親や友達にそんな評価を受けてきたように思います。それは今でもあまり変化したように思えません。残念です。

怒る気持ちを限界まで溜め込んでいるのに、気が短いなどと評価されては身も蓋もない気持ちに満たされてしまいます。それでも我慢が大事とかと、怒りを表すと説教を受けるのがほとんどの場合でした。

感情の区分はさまざまに可能です。分け方によっては数百種類の感情に分析できるようですが、もっとも単純な感情の種類といえば、日本独自の「喜怒哀楽」という4つに分類するものでしょう。

しかし喜怒哀楽では感情をコントロールできません。喜怒哀楽は外的刺激に対する反応と考えられます。何かに喜ぶ、何かに怒る、何かで哀しみ、何かで楽しむといった具合に感情の受動的側面に注目した概念だと思います。

哲学書を漁ってみると、ハイデガーは不安にアプローチしたといえるようです。彼は不安を人間の根源的存在と結びつけて説明しようとしています。

東洋の五行思想では5つの感情を取り上げます。それは以下の5つの感情であり、それらは陰陽五行の働きがあると考えます。つまり少なくとも5つの感情は、陰陽五行によってコントロールできる可能性があります。

「怒」りの五行は木、五蔵は肝の陽。「喜」びの五行は火、五蔵は心で陽ですね。そして「思」うは五行の土で五蔵は脾です。また「悲」しみの五行は金、五蔵は肺の陰になり、「恐」れの五行は水の五蔵は腎の陰という配当になります。

「怒」り、「喜」びは外に表れでるのを基本として陽になりますが、「悲」しみと「恐」れは必ずしも外面に表れてくるとは限りらず、陰とします。ただ「思」うには陰陽がありません。陰陽がないのを無極といって、陰陽の両方を内包しています。

表面に表れてくる感情もあれば、内面に中心がある感情もあるといいます。そしてそれらが陰陽の関係になっており、中心に位置するのは陰陽が含まれる「思」う感情です。

古代中国でも多くの感情はあったはずですが、中心的なものに集中するやり方でしょう。もちろん進化論的な解釈もあって、「怒り」は自分の命・安全を守るのを目的としているとします。

そのため「怒り」の感情がもっとも激しく働くという。だからさまざまなアンガーマネジメントは怒りの制御を目指すともいえそうですが、感情をコントロールするとは「無」になることではありません。

感情を消し去ると人間ではなくなってしまいます。かつて前頭前野の手術でロボトミー化させる術式があったそうですが、結果は人間らしさを奪うものであったといいます。感情の変化を否定するのは無意味です。股間を除かれれば釈迦でも怒りをあらわにしたと伝説にもあります。

怒らないではなく、制御された怒りが大切です。正しく怒り、適切に表現できるのがふさわしく思えます。ですから怒りの感情がアンガーマネジメントの中心課題になるのも同じ目的があります。確かに、怒りだけが対処しなければならない感情ではありません。

ただ「怒り」はもっともセンセーショナルな感情なのです。だからこそ感情コントロールは自分のためです。率直に言い替えれば、周囲に対する攻撃性を制御するためのアンガーマネジメントではありません。

自分の中の感情のバランスを怒りは破壊してしまう力を持っています。その力を怒りは最終的に自分自身へ向けてしまいます。それが自傷的感情や自傷衝動に成長します。同時に怒りは制御しやすく、わかりやすく、単純です。だからこそアンガーマネジメントは感情コントロールの入り口なのです。

この後に及んで?アンガーマネジメントに挑戦するには理由があった

アンガーマネジメントに関する情報がネット上に溢れてきました。どれも役立ちそうですし、みんな苦労しているなあと感じます。なかなか簡単にいきそうにないのは、よく分かるのです。

何かを注意したり、忠告したり、指導したりするだけのつもりなのに、怒りっぽいなどとレッテルを貼られ、挙げ句の果てにはもっと忍耐強くならないとだめよなんて、逆に説教を食らう始末。

気が短いというのは人格的に何かが故障でもしているのかしら、と随分長く内省していた期間があります。その時に気がついたことがあって、その後は内省に代わって、じっくりと観察するようになりました。

それは出世する人は気が短いという事実です。出世が社会的に正しいとはいいませんが、孔子様ですら、気が短いと評された話も伝わっています。逆に気が長くて出世したという人を思いつくのが難しいくらいです。

皆さんの職場で、すぐに怒鳴る、そんな人が上役に多い気がしませんか?上役になるような人は、たとえ怒りを表に出さなくても、人事考課で必ず怒りの評価を加えている気がします。成熟した人格で知られた大学教授が家で奥さんに怒鳴っているのも目撃しました。

ただし人望を得て出世するような人は剥き出しで怒っていても、その後の扱いが巧みです。まず次の瞬間まで感情を持ち越さない。その様子はまるで子供のそれです。次の瞬間には笑っているほど、切り替えが早い。

さらに感情を野放しにしない。身体を震わせるほどの怒りをそのまま表現しません。抑制的で静かであろうと努力しているのが、伝わってきます。怒りの感情を制御している姿なのでしょう。

そして感情を分離するのにも巧みさがうかがえます。怒りの感情を切り離したように、淡々と目の前の問題に向かいます。これらの様子を見るにつけ、練られた人格を感じて、信頼できる人だと思えます。

アンガーマネジメントの目標を見誤らないで!間違った目標を立ててしまうと当然、間違った方向に進んでしまい、早かれ遅かれ破綻してしまうでしょう。ここでも目標はとても大切ですね。

怒りをコントロールするアンガーマネジメントです。怒りを消滅させるのではなく、怒りに鈍感になることでもありません。ですから、心理学的暴露法のように、怒りの感情に対して慣れてしまうのを目標にしてはいけません。

怒りを言語化していようが、無意識であろうが、最悪、怒りで知能指数は30%低下するそうです。無意識に怒りを感じていても、精神的、肉体的な影響に変化はありません。むしろ感じていないのであれば、よりやっかいだといえるかもしれません。

怒り、悲しみなどバランスを失った感情は睡眠障害の原因の一つにもなります。睡眠障害によってさらにストレス耐性は低下するでしょうし、いずれ明確な身体症状が生じます。これらは怒りに限らず、感情のバランスが崩れているなら同じです。

怒りにまかせるのが危険行為です。溜め込めば身体を蝕むだけでありません。逆に怒りはたやすく対人関係を破壊するでしょう。怒りは外に向かう感情なので、さまざまな外的影響を及ぼします。

逆に怒らないのも危険行為です。感情を表現できないと、周囲も気づきませんし、歓迎していると誤解されかねません。不愉快な影響に対して同意するなら、自分の権利を損ないます。

人間は感情コントロールが上手な人を信頼する傾向があるのは一般的に知られています。これはもちろん、すぐに怒る人は信用できないというのは分かりやすいと思います。

それ以外にもすぐに泣く人とはつきあうのが大変ですし、喜びが極端な人はうるさいと思われがちです。あるいは楽しむのが下手な人と付き合うのは高度過ぎるといえるでしょう。

気を付けたい!怒りをコントロールするのと抑圧するのとでは雲泥の差

怒りをまったく表に出さない人が周囲にいます。とても忍耐強い正確なのだと思っていると、足下をすくわれるような思いをしたりするのです。あるいはその人とつきあっていると、困ってしまう時があります。

突然、過去の話を持ち出してきて、あの時は…と話が始まります。話をしている時点ではもはや打つ手もなく、その人の怒りの向け先は結果的に生じた状況であり、そして私なのです。話し込んでいる段階で、その人に対する印象は完全に変化してしまいます。

一度でもそのような経験をすると、その人とは以前と同じような態度で接するのが難しくなります。大丈夫と言っていても、それが本当なのか計り知れないからです。ただ本人もその性向については了解して、対処する方法を探しているそうですが。

抑圧はコントロールではありません。感情の表出を我慢するように指導されてきた経緯もあって、一定の年齢以上の日本人は、感情表現が苦手なようです。表現できないから、ひた隠しにするというのは、あまりにも不健康ですよね。

ひた隠しにして、感情を抑圧しても心の奥底に溜め込むだけです。感情の記憶は以外と強く刻み込まれるそうです。むしろ試験対策のための記憶を感情と一緒に覚えるという記憶術があるほどです。

抑圧は必ず噴出します。いったん潜在意識に沈み込んだ抑圧は、長期に渡って保存されますが、食べ物のようには消化されず、消失しません。つまりいつまでも心の奥底に残って、沈殿していると考えられています。

抑圧する状態で処理するのは感情コントロールの失敗です。それは身体に症状が表れます。ストレスを生み出し、潜在した感情によってバイアスがかかってしまうようです。結果として、偏った理解をしてしまい、人間関係が破壊されるようになる危険もあります。

感情コントロールの失敗は、怒りに対するものだけではなく、すべての感情に対して同じことが考えられます。例えば喜びを控えめにしたほうがよいのにはこんな理由があります。確かに喜びは周囲と分け合うのが良いのです。昇進祝いや誕生祝い、あるいは快気祝いなど慶事をみんなで祝う習慣があります。

しかし、周囲が同じように恩恵を受けるわけではありません。主役が周囲に気を配らなければ、問題を生じるのも当然です。結婚式に出席する友人たちには、一体何のメリットがあるかを一考する余裕が欲しいです。

なにより嫉妬を買うと後々面倒の種を蒔く結果を招きます。ヨーロッパでは、周囲の嫉妬を何より警戒する文化もあります。嫉妬は外に表れない怒りの感情の一つです。喜びの感情も表現する程度が問題になるようです。

悲しみの取り扱いを間違えてはいけないのはもちろんでしょう。人生には悲しみの時間がつきものだからこそ、上手に付き合うノウハウが必要になり、周囲を助けることに直結するでしょう。

悲しみは充分に悲しむのがよろしい。悲しみを抑圧すると、大きなストレッサーとして問題を生じ、心の働きを麻痺させます。ですから充分に落ち着いてくるのを待つのが上策だというわけですね。

恐れを抱く気持ちは、自分の心の中にあります。抑圧して無視したり、なかったことにするといつまでも残ります。なので何を恐れているのかを明確にしていくのが対処方法です。

何でもないことを恐れていたり、解決できることから逃げようとしていたりと、恐れは自分を測るものさしです。恐れに振り回されると人間関係を形成できなくなったり、問題解決ができなくなったりと困った事態を生み出してしまいます。

そして怒りは身体を蝕みます。怒りの力はとても強く、扱いが難しい。他のことに振り替えると怒りは力になりますが、身体が壊れてしまいました。

抑圧したら困ったことになる特徴を理解してアンガーマネジメント

ある知り合いから一人の若者を紹介されました。彼は「わたしは怒らない人です」という宣言をまじめに主張していたからです。自分は他の人とは違うのだという意識が高そうでした。

虚言癖があるのか、自分の姿を正しく捉えられないのかと仮説を立てて議論したり、さまざまに評価を試みたりしながら、観察を続けるようにしました。彼には幼い頃に精神病院に入院した経験があるとわかってきました。

そもそも怒りを感じない人はいません。そこで彼の表出と自傷行為との両方の関係に注目その人を臨床心理士と観察するようにしました。自傷行為も周囲に対して表現できない怒りの表現です。

怒りを忘れるまで、怒りを飲み込めば良いと教えられていたようです。この点は自分と同じだなぁと感心しつつ、表出の激しさに圧倒され、内部に蓄積された力を推察しました。怒ってはいけないという内的規範が圧力を高めます。

周囲が怒りを表しているにも関わらず、自分は抑圧しなければならないという状況は自己認識を著しく低くします。その意識は内部の怒りを育てる結果になります。彼は震える両手も意識できず、入浴中の自傷行為も無意識下で行うようでした。

溜めこんだ怒りは小さな刺激で噴出します。怒りの表現ふさわしい何か不当な扱いや生命の危険などというイベントは不要です。些細な刺激、例えば自分のスプーンに汚れが残っていた程度で充分なのです。自分が不当な処遇を受けている事実が重要だからです。

このように抑圧された怒りは、成長しながら噴出するタイミングを待っています。ある日のことです。彼の目の前で、他の人に対する怒りを表して激しい態度をとってみました。彼の顔つきが一気に変化して険しいものになりました。そして怒りを爆発させたのです。

怒りのプレゼンテーションで怒りが噴出したのです。彼にとって親ではなく、同じ資格を持っているはずの他人が激しく怒りを表出している事実が、内的抑圧している自分の規範に不合理な状態を作り上げたわけですね。

怒りは他の感情に変化して、長く苦しめます。潜在した怒りは場合によって正義感であるかのように感じられたりします。正義感は規範化していて、倫理的な振る舞いとして正当化されているように見受けられました。

一般に怒りの噴出は、破壊行動になって表れます。怒りを表現するのに優しい口調や、動物をかわいがるような優しい態度はふさわしくないでしょう。人によっては、延々と単純作業を続ける場合もありますが、それはやはり単純作業を繰り返すことで、自分の時間を浪費しているという破壊行動に含まれるように思います。

問題は、怒りはぶつける相手を選ばないので自分を攻撃するという傾向にあります。抑圧して育てられた内的怒りは地雷のようなもので、誰を攻撃するのかという目標がありません。ですから時として、「なぜその程度のことで、そんなに激しく怒るのか」と周囲に見えてしまうのでしょう。

そのように他人の怒りに無関心な人は自分の怒りに対しても野放図になりがちで、同じ危険を抱え込んでいるといえます。自分の内的な怒りの蓄積を認識できていないために、他人の怒りを自分と共通していると考えられないのです。

噴出する方向や対象、程度をコントロールするのは困難です。この点でも爆弾と似ています。怒りは決して突然生まれるのではなく、「どうして〜」という問いかけから始まっています。そして非合理な怒りは合理的な解決を探しています。

合理化するためにさまざまな原因を求めて、怒りの対象範囲を拡大します。怒りをできるだけ早期に感じれる感性が大切です。感じた時点ですでに身体的に反応していると東洋医学は警告しています。

これしかない!感情と向き合うためのいくつかの具体的方法をご紹介

感情を手がかりに自分を再発見すれば幸せの方向が分かります。自分の怒りによって、自分を追い込んでいると気づいた数年前から、さまざまに試みた方法を告白するのは恥ずかしい気がします。

とにかく辛抱してみるというのが最初の試みでした。それから悟りの境地を求めたりもしました。でも結果はあまり喜べるものではなく、最終的には自分の存在にダメ出しするだけでした。それでも懲りないで、方法を工夫して実践しています。

具体的な状況を例にとりながら、それをここで手順を説明して、恥の上塗りをしてみましょう。怒りを感じる状況というのがあります。それは不快で、理不尽なストレスを受けている状況です。

例えば朝の通勤電車の中で後に立っているサラリーマンが背中を押してくるとしましょう。これは実際に経験したもので、電車から降りた時には随分と疲れてしまったのを思い出します。

そんな状況では怒りがどこからかやってきて、眼の奥が熱くなるのを感じます。その正体は分かりませんが、ただ不快な状況から逃れ出たいという衝動が身体を突き動かそうとしているのを感じていました。

最初は言葉でできる限り正確に不快な状況を表現するのを目標にします。これは他のアンガーマネジメントとほぼ共通した手法だと思います。このままだとまったく効果しないばかりか、むしろ怒りを増長させてしまう危険もあります。

次に事実(できごと)を分析します。ここでいう「分析する」とは、事態を作っている要素を分離して、それぞれを検討する作業です。分析が終わって、合理的な説明が可能になったら、最後に再度、事態を表現して統合します。

分析の最初は事実を現象と解釈に分解することです。この作業になれていない方も多いかも知れません。馴染みがないというのであれば、身近な出来事で充分に練習する必要があるでしょう。

事実は自分が体験した状況ですので、次のように現象を表現できます。朝の電車が混み合っていること、後にサラリーマンが立っていること。そして背中を押されていると感じたことです。気づきたいのは、この3つの中で、最後の要素は解釈を含んでいる点です。

「押されている」というのは後ろに立っているサラリーマンの意思を前提にしてして、自分が正確に知ることができない部分です。つまり押しているから圧力を感じているというのを押されていると表現しているのであって、「圧迫を感じる」というのが現象になります。

たしかに現象と解釈とを完全に分離できませんが、解釈を無警戒に事実に含めてはいけません。そうしなければ、自分の解釈が事実を正当に把握しているという理解に捉えられてしまうでしょう。

現象と解釈とを分離できたら、その時の感情を明確にします。そのために事実に対してどんな感情を抱いたかを記述します。それは怒りでしょうか、不快感でしょうか。あるいは何故という感覚でしょう。

このように現象、解釈から生じた感情を分類します。感情を分離してみると状況と感情とのつながりが、必然ではなく、他の可能性を含んでいるかも知れないと気づく場合が多いです。

なぜサラリーマンが背中を押してくるのかという疑問は、何を意味しているのかと考えるわけです。何も意味していません。にも関わらず意味を問うから理不尽さを感じて怒りを生じるわけです。

このように怒りの対象を特定すれば、事態の軽重が変化します。自分自身に潜んでいる恐れの原因を発見することもあります。悲しむべき要素を人間に見いだすのであれば、とても哲学的な気分になります。

なにより安直な正義感を捨てるのがコツです。そうすれば無意識にある規範を発見できます。規範は自分の可能性を奪うのです。

足下に注意!感情を取り扱うための基本的態度に問題が潜んでいた

怒りを感じる背景には文化的要素があります。文化論を学んでいる時にそのような前提を本で読みました。でも怒りを感じることと文化とにどのような関係があるのか、深い考察をすることなしに知識として記憶したのみでした。

「どうしてそのようなことをするのか」と他人に対して怒りを覚えます。「なぜ〜」という言葉で他人の行動を考え出すと不合理な結論に至ります。不合理は精神的な危険を生み出します。

危険から怒りなどの感情が揺さぶられるのですが、その人はまったく違う論理で行動しているのです。何を考えているのかわからないという思いが恐れを生み出しますので、こうなると怒りと恐れの相乗効果が働きます。

不合理とは結局のところ、自分の論理では結論が導けない状態です。だから恐れを抱くことになり、恐れが過剰になると怒りという反応を生み出すようです。そして自分の論理は自分の文化と言い替えられます。

日本と外国とで文化が異なるので、接触したときに不合理が表面化しやすくなります。電車の中で、店舗内で、中国からの観光客が大声で話す声が耳障りだという内容は聞き慣れていますよね。でも彼らは大声で話すことで周囲に自分たちの会話内容を公開するのが礼儀なのです。

彼らは礼儀に従っているのであって、その行動は決して不合理ではありません。ところが日本ではその礼儀表現が一般的ではなく、優先順位が違います。優先順位という考え方や、礼儀表現という行動様式はまさに文化の問題に含まれます。

同じ事が個人同士の間でも発生します。友人間や恋人同士、あるいは家族、親子関係、夫婦関係。関係が親しくなれば、より小さな文化的な違いが表面化するので、衝突が激しくなってお互いの感情を揺さぶるようになります。

個人間でも期待を裏切られると怒りが湧きます。朝食を準備しているのに、食べずに家から出て行った。なんて事態はどの夫婦関係でも経験するようなことでしょう。逆に朝食の準備を適切にしてくれないという不満もあり得ることです。

相手のためにやったのに、相手はありがたがることもない。これは不満を生じるひとつの典型です。友人の態度は、ある意味不合理です。しかし友人から見れば、それはラッキーに過ぎないかも知れません。

忖度が当たり前の文化に育ちましたが、お為ごかしの習慣を捨てるのが大切です。誰かのためにと、投資し続けるのは精神的に報われなさ過ぎるでしょう。物事は自分のためにすることが大切です。

他人に対して支援したり関与する行動は感謝されるかを基準に決定するべきだと、ある心理学者が言っていました。まず自分の平和が大切です。一歩間違うと自己中心主義とのそしりを免れないような気もします。

しかし、自分が苦しくて余裕がない時に他人に関わると判断を誤ります。余裕とは金銭的な問題ではありません。体力的に不十分だと、感情のコントロールは難しくなります。お腹が空いているだけでも大きな影響を受けてしまいます。

精神的にも余裕がなければアンガーマネジメントは困難です。何かに忙しくしている時や、心配事を抱えている時は自分の問題だけで精神的な余裕はないはずです。そのような状況下で、たとえ周囲の親しい人とはいっても他人の心配まで十分にはできません。

これからは普段から自分がどのようなことで気分が良くなるのかを探りましょう。小銭を拾うと機嫌が良くなります。人の優しさに触れると、慰められます。自分の機嫌良くすることを他人任せにしてはいけません。

自分で自分の気分を良くする努力をしていますか?自分の機嫌を伺う態度は後ろめたい。でも自分の気分の責任者は自分です。自分の気分を大切にするのは良いことです。

当たり前ですが、いつでもどこでも怒っている人なんていません

知り合いが心理学を専門に研究していましたので、よく現代的なメンタルヘルスについて議論しました。そんな議論よりもむしろ雑談のようなところから発見があったのは面白い経験だと思っています。

彼によれば、軽躁が現代的健康の条件です。軽く楽しんでいる状態を維持できる精神状態です。周囲の人もそんな人と付き合うのがとても楽だといい、社会的な成功を手にできると強調します。

個人的にはできる人がうらやましいと思います。楽しいことはお金と時間が掛かってしまいませんか?コストを必要としない楽しみを探しましょう。そうすると家にこもってインターネットをだらだらしているのが、とてもふさわしいという結論に至ってしまうかも知れません。

もはや出かける元気もないし、面倒くさいしと感じているなら、そろそろ末期的症状でしょう。ひんな精神的な消耗状態では何もできませんよね。軽躁になれない人の共通した悩みかも知れません。

無意識下に沈んでいる怒りが蝕んでいませんか?どうして報われなかったんだという不満やなぜ分かってもらえないんだという無力感は一見すると怒りの感情ではありません。しかし、そんな複雑な感情の下には怒りがあって、絶えず不満や無気力感に火力を与え続けているようです。

それらの背景にある怒りも怒りが代表しているとすれば、怒りとは呼ばれない怒りたちが多くあります。怒りとは何も烈火のごとく噴出しているものだけではありません。前段階的な怒りも怒りとして考えなければ、対処するのは難しいです。

吹き出していれば当然ながら扱うのが難しい怒りですが、前段階として潜んで心を支配しようとしている怒りも扱うのためにテクニックが必要です。いずれにしても怒りを扱うのは一筋縄ではなりません。

我慢の限界を迎えてはならないのは言うまでもないでしょう。しかし、我慢の限界がどこなのかはっきりしません。周囲から見れば、さらにつかみ所がないでしょう。だからこそ他人の怒りは恐ろしいのです。

条件に気がつけば早く対処できます。すぐに怒ると思っているなら、どのようなことに怒りを表現するのかを、特定するのも自分のことなら簡単でしょう。自分の問題から手を付けます。

原因ときっかけが揃って噴出するのが怒りです。きっかけに惑わされないように気をつけましょう。きっかけに怒っているのではないはずです。何に対して、何故怒っているのかに焦点を当てなければいけません。

そうして、できるだけ早く怒りの種を見つけて処分します。きっかけを得る前に怒りの種を発見できれば、比較的対処ができるものだからです。そのためにメモに書き出して忘れないようにするのが第一歩です。

その段階で、さらに怒りが増してくるなら、後回しにするのが得策かも知れません。自分にできることにまず対処する精神ですね。日頃の習慣を作っておけばいざというとき他人の役に立ちます。

感情を観察する習慣を持つために、不安な状態と付き合うのが基本です。不安なのは不快に繋がりやすいですが、不安の正体は不安定です。何が不安定なのかを意識して不安な状態に慣れましょう。

不安を抱いていない人はいませんし、他人に恐れを抱いていない人はいません。恐れは不安から生じるからです。そして恐れは過剰な反応(つまり怒り)を生み出す傾向にあります。人間は知らないことや理解できないことに恐れを感じるものなのです。

それは国家間の問題にも表れます。他国支配している国家が過剰な対策をすると歴史は証言しています。他者支配は恐れを除くことができません。不安から恐れを生じるメカニズムはこのようですから、対策は明確ですね。不安を感じる対象を良く知ることです。

自己分析でわかる−怒りがわき出るためには条件にこんなものが必要

怒りを押さえつけると、身体が覚え込んでしまいます。そしてじっと爆発する機会をうかがっているはずです。逆に怒りを感じないようにする努力は役立ちません。人間の本能に逆らう努力は無駄であるとフランスの格言にもあったと思います。

ですから怒りに身を任せず、コントロールすることを目指します。そのためにさまざまな方法が提案されているのですが、怒りは悪者で怒る人が未熟であると言われているように思えます。

どれも何かの技術を身につけよと教授されている気分になります。そしてどこか焦点がズレているように思えます。まるで怒らせる人は正常で、怒る人が一方的に学ぶべきだと言われています。人を怒らせる人に問題はないのでしょうか?

少なくとも人それぞれに怒りのポイントは違っています。ですから誰かを怒らせてしまったとき、正しい関係を態度で表現して、何が怒らせてしまったのかを尋ねるようにするべきでしょう。アメリカに滞在したとき、そのような対応を経験して驚きました。

怒りを覚えるキーワードは何かを観察するのが大切だと思います。なので怒りを覚えた時のキーワードを記録しています。応答関係が正常に保てているかは一つの問題です。応答がないと怒りが湧き出し、大きく育ちます。

例えば呼びかけに返事がない、とこの段階で認識するのは困難でしょうが、初期的なイライラが生じます。また話が逸らされるとイライラします。それがしつこく繰り返されると怒りを感じます。

直接的、下品な言葉の言い替えに怒りを感じます。この程度は当たり前でしょう。でもこれらに共通する焦点はないのでしょうか。それぞれが独立した刺激として働きかけてくるのでしょうか。

これらは無礼な態度で自尊心が傷つけられているからではありませんか。いずれも自分の立場を無視されたように感じてしまうからですね。人は誰でも行動規範を支えている自尊心は大切にされたいと思っています。

あるいは自分にとって相手は無視できない存在であるのも要因の一つでしょう。関係のない人が何をしていても、その人に関心を持てません。逆に関係のある人が問題行動をすると怒りに結びつきます。大切に思うことを損なうと感じれば怒りを生じるのです。

対人技術として理解できる武術では、一歩だけ引いて間合いをとる心得が役立つといいます。武術では引くのは逃げるためではなく、反撃するためです。感情の場合は反撃ではなく、何を守ろうとしているのかを考えることになるでしょう。

そうできれば、自分にとって大切なものを確認する大切な機会です。意外と大切ではないものを大切にしてしまっていませんか?結局、怒るのにふさわしい理由にもならない事かも知れません。

前提としてフラストレーションが溜まっていませんか?「思うように事が運ばない」という思いがフラストレーションですが、こんな思いを抱き続けているなら不健康な精神状態になっています。

このように感じた時点でしっかりと気分転換しましょう。フラストレーションを溜め込むと爆発の準備が整います。人間はダブル・ストレスに対処できない本性を持っていると受け止めるのが謙遜な態度です。ですからフラストレーションが多重化する前に処理しましょう。

身体がストレスに反応すると臨戦態勢になります。私たちがストレスを認識するよりはるかに早く身体は反応します。少しのストレスで臨戦態勢になり、臨戦態勢は怒りまで、あと一歩の恐れの状態です。

怒りを感じたら、分析を開始する習慣を作って、生涯を通じて人格を改善し続けるのは素晴らしいことです。いち早く疲れを察知して対処するのは一種の技能であり、感情コントロール全般に応用可能です。

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