怒りを感じる背景には文化的要素があります。文化論を学んでいる時にそのような前提を本で読みました。でも怒りを感じることと文化とにどのような関係があるのか、深い考察をすることなしに知識として記憶したのみでした。

「どうしてそのようなことをするのか」と他人に対して怒りを覚えます。「なぜ〜」という言葉で他人の行動を考え出すと不合理な結論に至ります。不合理は精神的な危険を生み出します。

危険から怒りなどの感情が揺さぶられるのですが、その人はまったく違う論理で行動しているのです。何を考えているのかわからないという思いが恐れを生み出しますので、こうなると怒りと恐れの相乗効果が働きます。

不合理とは結局のところ、自分の論理では結論が導けない状態です。だから恐れを抱くことになり、恐れが過剰になると怒りという反応を生み出すようです。そして自分の論理は自分の文化と言い替えられます。

日本と外国とで文化が異なるので、接触したときに不合理が表面化しやすくなります。電車の中で、店舗内で、中国からの観光客が大声で話す声が耳障りだという内容は聞き慣れていますよね。でも彼らは大声で話すことで周囲に自分たちの会話内容を公開するのが礼儀なのです。

彼らは礼儀に従っているのであって、その行動は決して不合理ではありません。ところが日本ではその礼儀表現が一般的ではなく、優先順位が違います。優先順位という考え方や、礼儀表現という行動様式はまさに文化の問題に含まれます。

同じ事が個人同士の間でも発生します。友人間や恋人同士、あるいは家族、親子関係、夫婦関係。関係が親しくなれば、より小さな文化的な違いが表面化するので、衝突が激しくなってお互いの感情を揺さぶるようになります。

個人間でも期待を裏切られると怒りが湧きます。朝食を準備しているのに、食べずに家から出て行った。なんて事態はどの夫婦関係でも経験するようなことでしょう。逆に朝食の準備を適切にしてくれないという不満もあり得ることです。

相手のためにやったのに、相手はありがたがることもない。これは不満を生じるひとつの典型です。友人の態度は、ある意味不合理です。しかし友人から見れば、それはラッキーに過ぎないかも知れません。

忖度が当たり前の文化に育ちましたが、お為ごかしの習慣を捨てるのが大切です。誰かのためにと、投資し続けるのは精神的に報われなさ過ぎるでしょう。物事は自分のためにすることが大切です。

他人に対して支援したり関与する行動は感謝されるかを基準に決定するべきだと、ある心理学者が言っていました。まず自分の平和が大切です。一歩間違うと自己中心主義とのそしりを免れないような気もします。

しかし、自分が苦しくて余裕がない時に他人に関わると判断を誤ります。余裕とは金銭的な問題ではありません。体力的に不十分だと、感情のコントロールは難しくなります。お腹が空いているだけでも大きな影響を受けてしまいます。

精神的にも余裕がなければアンガーマネジメントは困難です。何かに忙しくしている時や、心配事を抱えている時は自分の問題だけで精神的な余裕はないはずです。そのような状況下で、たとえ周囲の親しい人とはいっても他人の心配まで十分にはできません。

これからは普段から自分がどのようなことで気分が良くなるのかを探りましょう。小銭を拾うと機嫌が良くなります。人の優しさに触れると、慰められます。自分の機嫌良くすることを他人任せにしてはいけません。

自分で自分の気分を良くする努力をしていますか?自分の機嫌を伺う態度は後ろめたい。でも自分の気分の責任者は自分です。自分の気分を大切にするのは良いことです。